シーサイドへの道のり
最近 演歌を聞くとしみじみする。私の世代はラジオから流れるアメリカンポップス 1960年代の全盛期だった。
中学生の頃、勉強机の脇にトランジスタラジオを置いて勉強するふりして聞いたものだ。
大阪の下町の中学に通っていた私は(住まいは西成区の天下茶屋)漠然と将来何になるんかな?
と考えていた。特別、手先が器用なわけでもなく、勉強も嫌いだったから成績も普通くらい。
ところが、3年生の時オヤジの転勤で東京に移ることになる。1965年のこと。
これが人生の始めての転機だった。確かに大阪も都会だから、東京にいっても大した違いは無いだろうとか思っていたが
実際は全然違う場所だった。
まず、大きさが違う、広さと言うべきか。
中学生の私にとっては、東京でもはずれの葛飾区に来たもんだから、池袋、新宿、また渋谷なんて山手線の反対側で
えらく遠い場所だった。だからせいぜい上野まで。
当時のウンコ色の常磐線で金町から一本だったから。
おまけに言葉が違う。だからさ〜 とかいう東京弁はえらく気取った言い方に聞こえた。
そうやろ〜の、ろがかっこ悪くて そうだね〜 とみんなに合わせることに腐心した。
友達もあまりいないもんだから、仕方なく勉強をした。
毎週、日曜日は大久保の海星高校の模擬試験も受けにいった。高校受験のためだ。そんなんで成績と言うか、受験の為の
偏差値もぐんぐんと?上がり当時難関と言われていた、都立の航空高専の受験を許可してもらった。
試験は2月の大雪の降る日だった。当時のぼろい校舎で寒さに震えながら試験を受けた。
当時、機体工学、原動機工学、機会工学の3部門あり、私は原動機科に受かった。これが2番目の転機。
仮に普通高校か工業高校なんかに入っていたら、今とはかなり違う人生になっていたはず。
それからは、5年で卒業するはずが、7年も滞在した山あり谷ありの青春時代。
私が高専に入学したのが1966年。
まだ世の中全体がアナログの時代で、ある意味今よりも質素なというか簡素な生き方を皆していたように思う。
やはり情報が増えれば増えるほど人はそれに踊らされるようになるのだ。
昔は情報は自分で努力して得るものだったが、今は廻りじゅう情報の洪水だ。
受験も上手くいったし、これからバラ色の青春かと思ったが、世の中甘くはなかった。
周りは下町の大学にはいけないが(家庭の事情で)頭のいい奴ばかり。
たちまち私は授業に付いていけず落ちこぼれになってしまった。
夏休み明けの9月からは学校をサボって上野公園をぶらぶらする始末。当然の結果落第。
辞めようかとも思ったが、他に行く当ても無くもう一度1年生。本当に恥ずかしかったのを覚えている。
ただ性格がそうなのか、逆に開きなおり先輩風を吹かしていった。
そうこうする内、時代は次第に動乱の相を呈するようになる。
大学では全共闘の学生運動が激しくなり、私がいた高専でもそのムチャな詰め込みカリキュラムに反発して学生対学校の
戦争が始まった。
なんでも首を突っ込むのが好きな私はそのころ、既にクラスのリーダー。
1年の時同期だった連中とも仲を組み、学生会を乗っ取って?そこの会長に納まった。
それが3年の時。高専は各県1校ずつあり、全国で50数校。
ほとんどが国立だった。其処の学生会にも連絡を取り、全国高専連合を作った。初代の議長は私。
単純に目立ちたがり屋なのかもしれない。
別にそのころも青臭く議論を交わしていたばかりではない、一つの趣味がバイクであり、ギターだった。
特にギターは当時はやったフォークソングのブームで私もアコーステックのギターで弾き語りとかしていた。
そんな中、新宿でフォークゲリラとかいって、新宿駅の東西通路の中ほどでギターをかき鳴らして反戦フォーク
(なんて言葉が古いんだろう)を歌う集団が出始めた。
時代が時代だったから、(アメリカのベトナム侵攻が激しさを増していたころ)たちまち社会現象になり、勤め帰りのサラリーマン
やOLなどが輪を囲みみんなで反戦歌を歌う、異様な光景だった。
それを見て、ミーハーな私はすぐさま池袋の立教の大学の連中と連絡を取り池袋駅の地下で同じことをやった。
今でも鮮明に覚えている、そのときの光景を。
私ら数人がギターで反戦歌、(ここがポイントだ。
恋愛の歌では人は集まらない)を歌いだすと、たちまち人の輪が出来てガリ版刷りの歌詞を片手にみんなで歌いだす。
多い時は100人以上で通路が通れないほどだった。
人は目的があればこんなに一緒の行動が出来るんだと感激したものだ。
そんなことをしていたから?学業は当然おろそかになり、3年をもう一度落第をした。そのころ学生運動も急激に下火になり、
社会全体に閉塞感が漂っていた。
東大の安田講堂の立てこもりが陥落した頃だ。
公立ではあったが、もう一度同じ学年をやると言うことはそれなりにお金がかかる私はオヤジに相談した。
止めろと言われればそうするつもりだった。
私より遥かに頭のいい連中が、純粋さ故、大量に自主退学していたしオヤジは私の問いに終始無言だった。
それはお前の進路はお前が決めろ と言っているようだった。
というかそういうふうに、都合よく?私は解釈した。
その後、2回目の3年、4年、5年と順調に飲み会に?明け暮れ無事に卒業式間じかを迎えた。
仲間はとっくに就職先を決めている。
大手ではトヨタ、日産、本田。
少数、JAL,ANA。
ほとんどは整備部門だが、クラスに一人はパイロットの試験に合格する奴がいた。
私は2回も落第している落ちこぼれ。
しかも学生運動のリーダーだったしで普通の会社が受け入れてくれるわけが無い。
しかし、心の中では上昇志向というか日本を動かしている上の連中とはどんな奴らだ?それを知りたい、見て会ってみたい、
そんな気が強かった。
そこで閃いたのが、車だ。金持ち、=外車。
でも深い考えは無く、しかも当時は 外車といえばアメリカ車だったから、とりあえずアメ車のディーラでも入れば道は開けるん
じゃないの?みたいな考えで、東京の三田にあった、近鉄モーターの入社試験を受けることなった。
そこはフォードの代理店だ。
長かった髪もバサリと切り、初めて買ったリクルートスーツにネクタイとにあわねーなと思いつつ、面接を受けた。
イチゴ白書をもう一度の歌そのものだね。対応した人事の奴が、君は営業には不向きだね、(どこがや?)
登録課なら空いているけどとか言われて、自宅で結果俟ち。
そのころ実家を出て荻窪の4畳半のアパートでバイトをしながら待っていると、不採用の通知が来た。
興信所の奴が来て調べていたらしい。
当然、学生運動のことも判ったのだろう。当時組合には皆神経をとがらしていたから。
まあしかたねーや といつもの楽天的な考えで好きな車の本を見ていた。カーグラフィックだ。
ぺらぺらとページをめくっていると、広告のページでモノクロだがカッコいい車の写真と建設中のビルの写真、下に新社屋建設
のため若干名 営業募集とある。
名前は? シーサイドモーター これが私の運命を決める出会いだった。
カーグラフィックで営業募集の記事を見つけた私は早速電話してみた。面接に来いと言う。
次の日、荻窪から電車を乗り継いで横浜のシーサイドモーターの仮社屋 といっても倉庫の間借りに行くと、営業課長だった
樋口さんが前の喫茶店で面接をしてくれた。
さらっと履歴書に目を通すと、明日から来いよと言う。近鉄モーターとはえらい違いだなと嬉しくなった。
次の日から私の横浜通いは始まった。
電車では面倒なのでバイクで環八を通り、第三京浜で横浜へという道のりだった。
4月に入社して、9月にビルがオープンするのだが、それまでは銀行への使い走り、車の掃除、いわゆる雑用係、それを
しながら、そのころ3人いた営業の先輩の仕草、電話での応答、などを覚えていった。
なかでも面接をしてくれた樋口さんは今で言うイケ面で 着ているスーツもカッコも良くしかもトップセールスでもあったし、
私の師匠でもあった。
足車で樋口さんが運転する マセラーティのボーラの後を着いて行くのだが乗り込む仕草もカッコよく、車も飛びぬけてカッコ
よく見えたものだ。
今でこそ六本木あたりフェラーリもランボルもうじゃうじゃいるがその頃は全国でもほんの数台しかなかっのだ。
いつかは俺も運転させてもらいたい、それが当時の私の夢だった。
社長の松澤さんはある意味雲の上で、初めのころは言葉も交わしたことも無かった。
当時のラインナップは、代理店だったマセラーティが、ギブリ、ボーラ、カムシン、ランボルが エスパーダ、ヤラマ、ウラッコなど。
私が生まれて初めて運転したのは ギブリ。長いノーズに低い運転姿勢、本当に感激した。
だからこの車には今でも思い入れがある。
そうこうしているうち、10階建ての立派な本社ビルが完成した。1階がショールーム、それもイタリア製のタイルを貼り、家具も
イタリア製のものアイボリーで統一された空間はイタ車を入れるのにふさわしく、本当にかっこよかった。
2回は工場、新規で募集したメカも集まり、10人くらいはいた。3階はガレージ、6階は経理の部屋と社長室。
ここもふかふかの絨毯張りで贅を尽くしたものだった。後で考えれば、大きな資産も無い車屋がほとんど銀行の借り入れで
でかいビルを建てること自体が無謀だったのだ。
その時、1974年の10月頃だった。オープニングパーティが行われたのは。パーティーはそうそうたるものだった。
浮谷幸次郎さん、(天才と呼ばれた東次郎のお父さん、当時シーサイドからボラを買っていた)日本で1号車の365BBを購入
した市川さん、その他大勢のお客様が来られた。
私はというと、お客様の車の預かり係、兼交通整理。
一段落して、営業部長に私は何をすればよいんですか?
と聞くとお前は2階の部品係をやれと言われた。
せっかくキレイなショールームで華々しく?かつカッコよく?営業をできるんかと思っていた私だったが、仕方なくスーツから
ジャンパーに着替えて2階の工場の部品管理をし始めた。
原動機工学科を出ている私だから、部品も大体理解していたのだ。そうこうして、3ヶ月がたった。
私は折を見ては下に降りていき、部長に下で仕事をさせてくれ とせがんだ。お前がそんなにやりたいのなら、やってみろ、
但し営業は成績を挙げてナンボだぞと言って、ジャンパーからスーツに着替えることを許してもらった。
時は 1975年の1月のこと。
その頃のシーサイドの営業はいわゆる猛者みたいな連中が4人くらいがいて、私には雲の上のような人ばかりだった。
新米のしかも生意気そうな私を可愛がってくれる奴はいない、何をどうすれば車が売れるのか?
始めは皆目見当もつかなかった。
ただ、電話番で着た電話を捕っていると、たまに問い合わせみたいなのがある、そこでうまく話を進めると、具体的にお客が
ショールームに来てくれることに気づいた。
また、飛び込みで来たお客にもていねいに話をすることで、次に繋がることも覚えた。
そうこうしている内に、段々と私は売り上げナンバーワンの営業マンになっていく。
他の営業の連中は、飛びぬけてスポーツカーが好きだったわけでなく、私はそれらが大好きだったから、
それも大きな要因だね。
そして気がつけば、2008年で 通算33年の営業をしてきたわけだ。
長いようで、短い、それが人生と言うものだろう。
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