〜 シーサイド物語 〜

■ SSSAの名前が売れた頃。シーサイド物語  1965年〜1970年

横浜元町で、順調に商売を続けていた、シーサイドモーターだったが、(この社名は、単純に横浜港町と言う発想から、
巳晴さんがつけた。もうひとつは、ヒルサイドモーターというのがあったので、シーサイドにしたという説もある。)そろそろ場所も、
手狭になり、どこか良い場所はないかということになった。
そこで選んだのが、1号国沿いの、今でも本社跡のビルが残る、横浜市、神奈川区三ツ沢だったのだ。

そこは250坪ほどの崖に面した、更地だったのだが、銀行の後押しで安く買えたという。1965年のころだ。
そこにも当然、アメ車や、ジャガー、MGなど並べたが、まだイタ車は高級すぎて仕入れることは、できなかった。

そうこうしている内、当時の田中角栄外相の推進で、貿易自由化が決定的になり、要は、デーラー以外のだれでもが、
自由に車を輸入することが可能になったわけだ。
このことが、この会社の命運を左右することになり、しいては倒産する縁因にもなったことは皮肉なことだった。

時代を先取りすることには、自負をもっていた己晴さんは、早速この情報に飛びついた。
1970年には、自由化がスタートすることが決まったので、69年ごろから巳晴さんは得意の英語を生かしてアメリカの西海岸の
デーラーを、訪問し、当時、人気のあったポンティアック、ファイアーバードトランザム、カマロSSクーペなどスポーツカー系の
アメ車を、片っ端にリザーブしてまわった。
そして、70年の解禁と同時に、大量に輸入を開始した。

当時の外車屋の親父と言えば、国産からのたたき上げで、外車を輸入するなんてことは発想することさえ難しい連中だった
から、己晴さんの商売は的中し、1台売って、100万の利益(当時の金で) すなわちぼろ儲けの状態が、続いたのだった。

そのうち、ビルを建てる頭金がたまり、(勢いとは恐ろしいものだ)銀行も後押ししてくれ、72年ごろからビル建設のプロジェクト
がスタートしたのだった。


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