〜 シーサイド物語 〜

■ 人生の絶頂期、自社ビル建設へ。シーサイド物語  その3

船橋サーキット (今は無い) で、レーススーツ姿の己晴さん。



輸入解禁のバブルのような、業績好調のおかげで、ビルを建てる目処がついたのは、その2で述べた。

ところが皮肉にもここからが、シーサイドモーターにとって、坂を転げる第一歩だったのだ。
勝って兜の緒を締めよとは、古い諺だが、真実を衝いている。

ここで、己晴さんの絶頂期だった、1970年ごろの生活を紹介しよう。
勿論、シーサイドの社長として、忙しい日々を過ごしながらも、彼は自分の楽しみをけして、おろそかにはしなかった。

そのころ、役員を務めていた、NACというカークラブのイベントや、当時船橋サーキットでよく行われた、クラブマンレースに
己晴さんはしょっちゅう出かけ、ワンデーレースを楽しんだりした。
車は自分の店から持ち出した、トライアンフTR4や、MG、初代のダットサンフェアレディーなどだった。

成績はそこそこだったようだが、おかげで、当時金持ちのみ参加していたような、日本のレース界だったから、
生沢徹や、安田銀二 (後年ラスベガスにホテルを買収して、日本の税金を払わないで、新聞ざたになった人だ。)
浮谷さんの親父さんなどと、親しくなった。

安田さんには、LP400カウンタック、日本上陸一号車 (黒で中タン、最近東京の某自動車屋で売りに出ているのを見たが、
ぼろぼろで可哀想な姿だった。)

つずいて、2台目も黄色のLP400,シルエット、となぜかランボルばかりを、買っていただいた。
浮谷さんとは、知らない人が多いかもしれないが、伝説のレーサーと言われた浮谷東次郎のお父さんだ。
千葉県市川の裕福な家庭に育った、東次郎さんは、船橋サーキットで、数々の名勝負を演じ、将来有望なレーサーと
呼ばれたが、鈴鹿サーキットで練習中に死亡した。

勿論、お父さんも無類のカーマニアで、私がお会いしたのは、74年まだビル建設のために仮社屋だった倉庫兼事務所に、
シルバーのマセラティボーラを、雨の中乗ってこられた時だった。

今思えば、当時はまだこの手の車は、ほんの一握りの裕福なカーマニアしか、持てない時代だったのだろう。

さて本題に戻ろう。
己晴さんは、カーレースのほかにも、ゴルフという特技があった。
腕前はシングルハンデ、よく大会にでては、トロフィーを持ち帰っていた。
カーレースに出て、ゴルフも上手くて、外車屋の社長とくれば、もてない筈が無い。
おまけに、彼は男性にも女性にも (ここが彼のすごいところだが) 優しかったから、女性のほうから、くどかれに来ると言う、
珍しい (うらやましい) 人格の持ち主だった。

それは当時の己晴さんの写真を見れば判るだろう。いつも彼は、ニコニコ笑っている。
小泉総理もよく、笑顔もどきの表情を見せるが、半分凍っている。
己晴さんの笑顔は、本当に屈託の無い心底からの笑顔なのだ。
私も、商売柄、ある程度地位のある人と会うが、己晴さんのような人をひきつける笑顔の持ち主には、いまだに出会っていない。
てことは、人間の力量は笑顔で判断できるということか。

そんな、優しい人格の己晴さんだったが、勿論商売、あるいは会社の運営は優しさだけでは通用しない。
ビル建設プランが出た時、シーサイドモーターの役員は、兄貴のみつぎ会長、己晴さん、いとこの馬場専務という面々だった。
いわゆるよくある、同属経営というやつだ。

後年、己晴さんは友人に、兄貴がいなければ俺はあそこまでしなくてもよいと、思っていたんだ。
といったそうだが、社長という立場上、そんな言い訳ではとうらない。
それぐらい、そのビルは豪華な (ちいさな車屋が建てたにしては) ものになってしまったのだ。
豪華ということは、即、金がかかったということを、意味する。

まず、ビルを10階建てにしてしまった。
これは、1から3階までを、シーサイドで使い、4階から6階までを貸事務所、7階から10階は分譲のマンションにしようという、
プランだった。
つまり、貸事務所と分譲で得た金で、元をとろうと言う訳だ。
ところが、逆風が吹き始める。74年に始まったオイルショックで、ビル建設の原価が高騰してしまったのだ。
おまけに、1階のショールームには、イタリヤのタイル、家具を使い、6階にも専用の社長室、会長室など作ったものだから、
74年10月のビル竣工時には、予定よりも大幅な借金を抱えてしまっていた。

私が、シーサイドに入社したのが74年の4月だったので、ちょうどビルが大体出来上がって、内装の工事を始めたころだった。
その6階の社長室に敷くジゅータンの厚さが1センチくらいあり、はぎれを貰って、自分のアパートに敷いたら、そこだけ
ふかふかで、可笑しかったことを覚えている。

すなわち、見た目にはそのころが、シーサイドモーターの絶頂期と言うわけだった。


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