〜 シーサイド物語 〜

■ 1974年 鞍の入社したころ  その4  1974年〜1977

74年10月のビル竣工を、無事に?終え、華々しく、ランボルギーニ、マセラティの日本総代理店として、カタチを整えた
シーサイドだったが、中東戦争の影響による、オイルショックの影か、営業成績は、あまり芳しくはなかった。

ちなみに、ランボルギーニ、マセラティ両者とは、1970年ごろに、代理店契約を結んでいたが、実際に、活動を始めたのは
ビルができてからの話になる。
74年当時、ランボルギーニ は、ミウラ、ヤラマ、エスパーダ、など、マセラティは、ギブリ、インディ、ボーラ、などがあったが、
それぞれのモデルで、台数を裁けるような車ではなかった。
つまり当時の日本のユーザーレベルにしては、車がスーパーすぎたのだ。

74年当時、大卒初任給が8万円ほどだったが、ボーラの新車で1000万以上のプライスを付けていたから今の価値で、
3000万以上の、しかも量産車ではない、殆どハンドメイドのイタリヤの高級スポーツカーを買うだけの、勇気と金、両方を
持っている人は非常に少なかったわけだ。

勿論社長、松沢己晴もそれだけで食べていけるとは思っていなかったが、元来のスポーツカー好きと格好をつけるのが好き
という、周りの雰囲気に推されて、シーサイドはイタリヤの高級スポーツカーを販売する店という、イメージを全面に押し出して
しまった。

勿論、極一部の金持ちは、シーサイドのおかげで、そおいうスポーツカーを手に入れられると、喜んだだろうが一般の人に
とっては、所詮縁の無いものだった。
当時、新入りの私は、営業課長の樋口さん (この人が当時のトップセールスで、後に町田でアウトストラーダと言う店を
起こした人。

今はその店は無い、浦安の同名の店ではない)彼が運転する、ボーラとか入り始めた、ランボルのウラッコなどのあとを、
帰りの足車で付いていくのだがそれらの後姿のカッコよさといったら、ほかに比べるものは無かった。
なにしろ、当時スポーツカーと言えば、ポルシエ911か、ロータスヨーロッパかという、時代だからイタリヤのエキゾチックカー
のデザインの、素晴らしさは際立っていたわけだ。

そうこうする内、マセラティが、メラック(ボーラの弟車)、ランボルがウラッコという、比較的廉価な(そうはいっても、700万も
したが、)モデルを出し、シーサイドも代理店の販売義務もあり、一月に、数台ずつ新車がはいるようになってきた。

勿論、イタリヤから船で横浜に、コンテナに入って陸揚げされるのだが、面白いのはマセラティはどの新車にも、厚い蝋
(ワックスの濃いやつ)をつけて来ることだった。
ボデイ全面に塗りたくった、錆び止め?のための、このワックスを落とすのが大変でほとんど一日仕事だった。 
たまにコンテナではなく、大きな木枠に車が入ってきたこともあった。
ランボルはいつもそっけないもので、比べるとマセラティは、丁寧だった。

新入りの私は、保税倉庫に入荷した車の引き取りに、足車の運転係でいくわけだがたまには、人がいない時、商品を運転させ
てもらえる時もあり、それが楽しみで仕方なかった。
保税倉庫は東神奈川にあり、会社から車で10分ぐらいのところだったが、そこの、ぺんぺん草の生えている港のそばの、
舗装もしてない一角が、カウンタックの一号車も含む、日本のスーパーカーの上陸地点だったのだ。



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