■ LP400カウンタック 日本初上陸 その5 1974年〜1976年
上から、カウンタック;1750万
下左上、カムシン;1460万 右、ボーラ;1290万
左下、インディー;1230万、 メラック;967万
右、エスパーダ;1290万、ヤラマ;1180万
右下、ウラッコ;898万、パンテーラ;660万
以上、1976年ごろの値段表だ。
日本上陸第1号のカウンタック LP400
今回はリクエストの多かった、カウンタックの1号車の話から始めよう。
この、ボデイは真っ黒、、内装は、タン色(キャメルブラウン)の、LP400は75年の始めに、日本にやって来た。
例の、東神奈川の保税倉庫に、行ってみると、そいつは地べたに、べったりと張り付くようにうずくまっていた。
当時の習慣で、保税は、屋外にあり、しかも舗装もしていない、地べただったので、余計低く感じたようだ。
普段なら、2〜3人で行く引取りだが、さすがにこの日ばかりは、一目見ようと多くのギャラリーが、ついてきたのを、覚えている。
ショールームで待てばよいのだがみんな待ちきれずに、来たわけだ。
でも、巳晴さんはそのときも、大した関心も示さず、ショールームで自分の仕事をしていた。
エンジンはわりとすんなりと、かかった。タイプ1のマフラーが付いていたので、音はそれなりに大きかったが、ミウラのような、
甲高い音ではなく、野太い音とでもいうような、こもった低い音だった。
当時はローダーなんてものは、無かったから、自走で行くわけだが、バージンドライバーは誰にするかと言う話になった。
で、其の時の工場のフロントマンだった、レース屋上がりの奴に、運転させることになった。
そろそろと言う感じで、LP400は、初めて日本の道を走り、無事に本社ビルにたどり着いた。
その、まだ真新しいショールムの中で、LP400は羽を広げ、ほとんど異次元の車というかオブジェのように見えた。
率直な感想は、こんな車買う奴がいるのか?ナンバーも付くのだろうか?というものだった。
このころから、排ガス規制がうるさくなってきていたのだ。
上の写真はナンバーを取るために オリジナルのマフラーを外し不細工な触媒マフラーをつけている。
この車が1号車。
ところが世の中広いもので、安田銀二さん(その3に出てくるレースが好きなお金持ち)がすんなりと、買っていった。
2号車は黄色だった。安田さんはおもちゃを、買い換えるように、黒から、黄色へとチェンジした。
当時のカタログを見ると、LP400は、1750万とある。
安田さんは、シーサイドにとって、VIPだったから、商談はすべて社長がやっていた。だから、いくらで売って、下取りはいくら
だったかは、解らない。生きていれば聞くこともできるが、安田さんも、社長も今は故人だ。
3号車は、オレンジ色だった。そう、よく雑誌などにでてくるあれだ。この車とは、私と深い縁がある。
なぜなら新車の時のオーナーから、今の持ち主まですべて、私の客だったからだ。(いまのオーナーで5人めだ。)
また、この車で始めて、エアーカーゴを使った。理由はランボルからの出荷が遅れお客に謝るためだった。
75年の10月頃、羽田に引き取りに行った私は、(成田はまだ無い。75年の4月頃から念願の営業をさせてもらっていたのだ。)
首都高を横浜へと走ったのだ。
これが、其の時の写真。運転しているのが私、バンパーの下にアリタリアのステッカーがある。
ミラーが無いのに、注意。そう、オリジナルはミラーが無いのだ。
この車の、ファーストオーナーは、新宿でキヤバレーをやっていた、Yさんで、私の遊び仲間の紹介だった。
彼は当時、はぶりがよく、その前はミウラSVに乗っていた。
(このミウラが後で、悲惨な事故を、起こすことになるのだが)それを、下取りにして、LP400を買ったわけだ。
Yさんには、よく可愛がってもらい、筑波サーキットでやった、イベントなどにも一緒に、いったりもした。
ところが、2年もたたずに、店が経営不振になり、カウンタックも手放すことになる。
やはり、人生色々、車も色々な運命をたどるもんだ。
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