〜 シーサイド物語 〜

■ ブームが去った その10  1978年〜1980年

おごれる者は久しからず。

あの熱狂的なブームは、まるで潮がひくように終わっていった。
1977年の後半には、もう日曜日ごとに押しかけていた、子供達の姿もほとんど、見られなくなっていた。
ただ、困ったことに、我々社員にとっては、祭りのあとのけだるさのような、雰囲気がのこってしまっていた。
元々、ブームになって、知名度は上がったとはいえ、高額な車であり、またスポーツカーということもあって、売り上げ自体は、
そう伸びなかったのだ。

社長、己晴にとっても、神風のような後押しがあったのだが、もともとのビルを建てた、有利子負債が大きくのしかかり、78年に
入ってからは、電算機と毎日格闘するような日々が、始まった。

つまり、毎月の返済と、売上。それをバランスするために、資金繰りと称して、銀行から借金をする。
そう、あのブームが去った、78年ごろから、日本の景気はあまりよくない方向へ、向いていたのだ。
当時、営業部長として、シーサイドの顔だった、樋口さんが独立するために、退社し、後を追うように、工場長だったKさんも
辞めていった。 つまり、シーサイドは、急速に求心力を失っていったのだ。

今考えれば、最盛期30人ぐらい社員がいたが、それほど1枚岩と言うほどではなく、組織として、結束が高かったようには思え
ない。 それは、やはり己晴さんの、リーダーとしての力量が足りなかったと言うことだろう。

例えば、例のブームのときの、臨時収入のようなものがあった筈だが、社員には殆ど還元されなかった。
夜遅くまで、働くメカニックからも、不満の声が出ていたこともある。
会社が、ほころぶのは、そういう細かいところからだろう。
そおいう私は、営業部長に任ぜられ、出来るだけの事はしようとした。
ただ、私も元からのマイペース人間であり、あまり人の管理など得意とする方ではなかったので、仕事は、あくまでも営業優先、
人事管理は2の次、というような調子だった。

今考えれば、人選も含めて、かなり無駄があったように思う。



フィリピン、マニラのレストランで。中央左が己晴さん。その隣 髪の毛の長いのが私。

ちようどそのころだった、社長から息抜きにフィリピンでも行こうかと、言われたのは己晴さんも私も、初めてだった。
この時のフィリピン行きが、己晴さんの最後を決めるキーワードになったのは、縁というものだろう。

旅行は、なかなか楽しいものだった。
南国の熱い風に吹かれて、(ホテルの名前もトレードウイングだ。)しばし、日本の事は忘れたのだった。



上は其の頃の写真。当初のシンプルな面影は消え、ダサイネーミングのステッカーをウインドウに貼り付けている。
つまり なりふり構わなくなってきていたのだ。会社もこうなるとおしまい。もう後戻りできなくなる。


79年になると、益々景気は悪くなり、会社もかなり経営が悪くなってきた。
つまり、他の会社と融通手形を切り出したのだ。(買売の実態が無いのに手形を互いに回すこと)こうなると、
経理を担当していた、馬場専務は毎日顔がひきつってくるし、手形でもなんでもいいから車を売ってこいという、始末だった。
勿論、そのころには、あの豪華な社長専用室も、撤去し、ショールームの一角を経理室にする苦しいやり繰りが、つずいていた。

そして、とうとう1980年の年が明け、シーサイドモーター崩壊のカウントダウンが始まったのだった。


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