〜 シーサイド物語 〜

■ シーサイド崩壊の日々  その11  1980年〜1985年

1980年の正月は、いつになく穏やかな雰囲気で、始まった。
そして、1月があっと言う間に過ぎ、2月に入ったときだ、急に慌しくなったのは。
確かに、前回述べたようにその頃はすでに、この会社は借金で身動きが取れないようになっていた訳だから、つまずくのは
遅いか早いかだけだったのかもしれない。
それは勿論、巳晴さんもよく承知の上ではあったのだろうが、人間誰でも負けは認めたくは無いもんだ。

事件は、九州の鹿児島のデーラー倒産から始まった。
当時シーサイドは融通手形を、ここと神戸と、3社ぐらいで回していたから、正しく命綱を切られたも同然だった。
次に神戸が飛び、もうどうにもならなくなった。

2月の10日ごろ、巳晴さんは疲れた顔で横浜に戻ってくると、私を呼び、「鞍ちゃん、もうどうにもなんねえや。」 と言った。 
次に、「しばらく、俺と博で(馬場専務のこと)台湾でもいって、身を隠すから頼むわ」と言われた。
私も、勿論倒産なんて初めての経験だったから、何をどうしてよいのかしばらく呆然としていた。

その時、ショールムには5〜6台くらいの車が入ってはいたが、カウンタックのLP400が1台あるだけでほかにはたいした車は
無かった。 ただ、2階の工場、3階の置き場には、客からの預かり車が、10台以上入っていた。
これをそのままにしたら、倒産を聞きつけて、債権者が押しかけ全部、担保がわりに持っていかれてしまう。

そこで私は、次の金曜日から、大至急預かっている車を返し始めた。
ある車はフェリーで北海道まで送ったりもした。
持ち主に連絡がつかない車は、仕方ないので横浜駅の地下にある駐車場などに、分散して預けた。
勿論、従業員総出でだ。まさしく時間を争う仕事だった。

次の土曜日、空っぽになったショールームに私は一人座っていた。
巳晴さんは、そのころもう飛行機に乗って、日本には居なかったし、別に従業員がいても始まらないので皆には、連絡するまで
来なくて良いと言っておいた。
案の定、噂を聞きつけて午前中から債権者が押し寄せた。債権の殆どは銀行がらみだったが、社長の知り合いの個人から、
借りているケースもあった。
巳晴さんは人望が厚かったから、みんな気安く、金を貸してくれていたのだ。
私は、怒鳴られようが、何されようがひたすら、申し訳ありませんと言うしかなかった。

大概の人は、車をどこへ隠したんだ?と聞いてきた。
ただ、私の裁量で処分できるのは、1台のカウンタックだけだった。
これは、巳晴さんが日本を出る前に私に譲渡書類を手渡し、これで皆への退職金代わりにしてくれと言われたのだ。
これを早々渡すわけにはいかない。
今考えれば、何であの時自分も逃げなかったのかとも思うが、一時的に逃げてもしょうがないやと思ったのだろう。
週が開けてからは、ヤクザが来たり、いろんな人が来た。

そして、1週間がたって、やっと巳晴さんが帰ってきた。
夜、ニューグランドにいるから、牛丼買って来てくれと言う。

私がこれからどうするの、と聞くと、とりあえず個人の債権者に謝りに行くという。
そして、次の日から、巳晴さんの人生で最も辛かっただろう日々が始まったのだった。

1世を風靡した、シーサイドモーター元社長、巳晴はどこへ行く。

その12、次回は新天地、フィリピンの話だ。



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