〜 シーサイド物語 〜

■ 新天地フィリピンへ  その12  

前回までは、シーサイドモーターがまだ有った時の話だが、ここからは、会社が無くなってからの話になる。
そんなわけで、80年の2月に会社が倒産し、己晴さん及び元従業員は、私も含めて全員失業してしまった。

最後の時、営業及び、経理関係で、8人、工場が10人くらいいたと思う。
最近だって、この不況で会社の倒産なんて、日常茶飯事だが、いざ自分の事となると、それは厳しい選択をせまられる。
特に経営者はその負債について(倒産するという事は、負債が多かれ少なかれある訳だ。
シーサイドの場合、新聞に出たのが、18億くらいだったように覚えている。)銀行や、その他の債権者に対して、申し開きを
しなければならない。
根の明るい己晴さんも、辛い日々をすごしたようだ。

ただ、時間はだまっていても、なにもしなくても、流れていく。
不思議なもので、2〜3ヶ月もすると、まわりの雰囲気もなんとなく、落ち着きを取り戻し、無くなったものに対して、いまさら
どうこういっても、仕方が無いという感じになるものだ。

私自信のことから記すと、始めは別の会社に移ろうかとも考えた。
事実、オートロマンという、当時東京では名を馳せていた会社の社長、三上さんが、お前行くとこないなら来いよ。
とも言ってくれた。
ただ、出来ることなら自分の力を(今思えばほとんど何も無かったのだが) 試したいという、若気のいたりで、いわゆる
ブローカーを始めたのだった。

本当に自分個人から、高い車を買ってくれる人がいるのか?と思ったが、贅沢さえしなければなんとか食っていけるだけの、
売り上げを上げることができた。
そうこうしている内に、87年には周囲の勧めで有限会社に法人登録し、気がついてみたら、今年で、独立して21年も経って
いたわけだ。

次に、己晴さんの話だ。
彼も、最初のころは債権者に頭を下げて回って、忙しい日々をすごしていたが、1段落すると、次の事が見えてこず、寂しい
気持ちになったと思う。

でも、彼は持ち前のバイタリテイーを発揮して、程なく次に自分が進むべき道を、見つけてしまった。
それは、フィリピンに移住して、むこうで島を買い、リゾートを作ろうというものだった。
なんで、フィリピンと言う発想が出たのか不思議だったが、恐らく私と一緒に社員旅行で行ったときのイメージがとても良かった
のだろう。(南国のおおらかなイメージが彼にぴったりだ。)

そこで、彼は自分の友人や、知人を頼って、出資者を集めにかかった。
一人50万で、会員券を売り、30人集めようと言うわけだ。
その1500万で、島を買い、”かやぶきの”リゾートを建てようというわけだった。
いくらフィリピンの物価が安いといったって、それくらいの金では建物を建てることは、出来ない。

そんな聞いたこともないような話で、しかも倒産して間もないのに投資するやつが何人いるのかと思ったが、
不思議と己晴さんは、そう苦労せずお金を集めてしまった。
中には、シーサイドに金を貸して、損をした人も、また彼に金を預けたのだった。

これが人徳というものだろう。
これが普通の人が、そんなことを言ったら、けつを張り飛ばされている。
それで82年ころから、彼はフィリピンにこもり始め、島の物色やら下準備を始めたのだった。

つずきは、次回最終回、己晴さんの最後の時だ。




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