〜 シーサイド物語 〜

■ モノローグ、 川の流れのように‥  最終回  

川の流れのように、水は海へと戻っていく。

そうこうしているうち、年は82年になり、シーサイドのことも皆の話題には、のぼらなくなっていた。
一方、己晴さんは、第2の新天地フィリピンで、着々と事業の準備を進めていた。
みなから集めた金で、小さな島を買い、現地の人を雇い、椰子の葉で作った、コテージを作り、いわゆる南国のリゾートらしき
ものを、作っていたのだった。

己晴さんによれば、俺はここに、ゲストハウスをいっぱい建て、レストランを作り、プールも作り、テニスコート、ショートのゴルフ
コースも作るんだ、と私に目を輝かして、語ってくれたものだ。
皆どうせ年をとるんだから、じじいになったら、ここにきてのんびりやればいい、というのが彼の考えだった。

しばらくするうち、己晴さんから、ようやく格好がついてきたから、一度遊びにこいやと連絡が入った。
そこで、シーサイド時代のメカニックや、友達など、5人ほどで行くことになった。
私も、今日まで世界中の色々なところに行ったが、このときの旅行は、未だにはっきりと頭に残っている。
それほど、ハプニングの連続で、面白い旅だったのだ。

フィリピンに1度でも行ったら解るが、まずこの国は全てが大雑把、悪く言えばいいかげんだ。
まあ、いいかげんというのは、良くないいいかたかも、というのは我々日本人から見てのことで、現地の人からすれば、それが
当たり前のことだからだ。

自分の価値観を相手におしつけるのは良くない。
まして、外国にいったら、郷に従えが基本になる。
始めのハプニングは、マニラから国内線の飛行機に乗ったときだった。
己晴さんの買った島は、マニラから遠く離れていて、船でいったら24時間かかるといわれた。
当然、飛行機を選んで、乗ったはいいが、これがとんでもないポンコツで、シートはぼろぼろ、操縦席のドア-はあけっぱなしで、
小さい飛行機だから操縦席が丸見えなのだが、奴らは片手で煙草を吸いながら操縦している。
ゆれるたびに、ドア-がパタパタと動き、プロペラ機なのだが、エンジンもあんまり調子よくなさそうだ。
客は我々をいれて、10人ぐらいで、無事に着陸するのを信じるしかなかった。

1時間ほどの快適?なフライトのあと、ようやく着陸した。勿論ちっぽけな なにもない空港だ。
待合室でほっとしていると、どうもようすがおかしい、われわれが目指すのは、ビラックというところなのだがどこにもそんな
看板が出ていない、もしかしたらまだ手前なのか、と聞いてみるとそのとうりだった。

我々の乗ってきた飛行機は、もうプロペラをまわして滑走路に行こうとしている、管制係のおやじがおーいと手を振って、
飛行機を止めてもらったのだった。
そこからまた1時間ほど飛んで、着いたのがフィリピンでも太平洋に面した、カタンドアネス地方のビラックだった。

待合室みたいなロビーに行くと、そこに真っ黒に日焼けした己晴さんがニコニコして我々を出迎えてくれた。
聞くと、ここからトラックに乗って、2時間ばかり、走ると言う。
町で大量の食物や、しゅろで編んだでかい袋に入れた、氷などを買い込んで、我々は出発した。
トラックの荷台に簡易式のベンチを置き、荷物は荷台に組み立てた屋根の上だ。
道は舗装などあるわけもなく、もう凸凹だらけだ。そこを己晴さんは結構なスピードで飛ばしていく。
おかげで荷台に乗った我々は、しがみついているのが精一杯という有様だった。
途中で、パンクもしながら、ようやく終点に辿り付いたと思ったら、ここからこんどは船に乗るという。
どんな船かと思ったら、カヌーに毛が生えたような、4、5人乗ればいっぱいのかぼそい船だ。
これを、2隻用意して、目的地の島へと向かった。

もうそのころは夕刻で、海なのにまるで湖のような静かな水面を、船は進んでいく。
まわりは今まで見たことも無いような小さな島が点在し、夕日に照らされたその光景は素晴らしいものだった。
30分も乗っていたか、ようやく己晴さんのプライベートアイランドへ、到着した。

島といっても、海から見るとほんの小さなかたまりみたいで、後で聞くと歩いて1周で、2時間くらいとのことだった。
熱海の先に浮かんでいる、初島ぐらいなものか。
そこで、始めに我々を迎えてくれたのは、蛍(ほたる)の大群だった。昔話で蛍の灯りで本を読んだというのがあるが、たしかに
出来るかもと思わせるくらい、小さな木に群がった蛍の大群は、異様なほど明るかった。
真っ暗な山道を、懐中電灯をたよりに歩いていくと、島の反対側に出た。
そこには、静かに打ち寄せる波打ち際に、バンガローみたいなコテージが3つほど並んでいた。

浜辺では焚き火がたかれ、従業員?らしき人たちが我々を出迎えてくれた。男女合わせて10人くらいか。
勿論、ガス、水道、電気など文明の利器は何も無い。
始めはとまどつたが、慣れてくるとそれもなかなかいいもんだと、思うようになった。
昼間は泳いだり、昼寝をしてのんびりとし、夜涼しくなると、浜辺でバーベキューを作ってラジカセを鳴らして、ディスコ大会という
のが毎日のパターンだった。

そこでは、己晴さんは王様みたいなもんで、専属のコック、自分専用の若いメイド(15歳くらいの)を2〜3人を使い、ほかにも
近くの島から、大勢の人を雇って、素晴らしい?世界を作っていた。
勿論そんなことができるのは、フィリピンの田舎だからで、日本では考えられないことだった。
我々は、その素晴らしい ”楽園”に3日ほど滞在し、島を後にしたのだった。
最後の方では、井戸からくみ上げてくれる、シャワーの代わりが気持ち良く、フィリピンの人々の人なつこい笑顔にも、癒された
思いがした。

その後、日本はバブルに踊り始め、私も少なからず恩恵を受けて、世界中を飛び回るようになった。
全然関係ないが、私の1回の商談で、最大のものが、10億で車を買って来いというものだった。
おまけに、選択はお前に任すと言われた。
そんなことで、己晴さんとも次第に音信が途絶え始め、風の便りにオフロードバイクで、島を走り回って転倒したとか9ホールの
ゴルフコースが出来たとか、耳に入ったりもした。
結局だれでも、自分のことが忙しくなると、人のことなど構っていられなくなるものだ。
私もその一人だった。また、己晴さんさえ居ればいつでもいけるという思いもあった。
そんななか、1994年の春、訃報が届いた。

己晴さんが突然、亡くなったというのだ。
それを聞いた時、私はひとつの時代が終わったなと、しみじみ思った。
勿論、横浜で盛大な葬儀が催され、私も参列したが、彼の骨はここにあっても、魂は、フィリピンにあるのだろうなと思った。 
間違いなく、其処で過ごした10年あまりの生活が、彼にとって、最高の楽園生活であったろうと思うからだ。
シーサイドの最後のほうで、デスクにむかって、計算機をたたく、己晴さんの表情とフィリピンで見た、彼の笑顔を思い出せば、
最後は幸せな人だったと思う。

私ごとで恐縮だが、私も今年で50才になった。
それで今まで出会った人のなか、1番魅力のあった人それは、勿論、己晴さんだ。
そういう人と出会えて本当によかったと思っている。

最後に、貴重な話を聞かせてくれた、馬場元専務、己晴さんの奥さん、息子の晴之さんに感謝する。

2001年 12月 7日
鞍 和彦



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