ディノを始めとするビンテージスポーツカーの総合ディーラー
キャステルオートサービス 代表取締役社長 鞍 和彦 KAZUHIKO KURA |
すべては 「お客様の満足のために‥」 当社は自動車販売業。 つまり如何に良い車、お客様が満足し、楽しめる車、それを探し提供するのが仕事だ。 勿論、その選別には私の40年の車屋稼業のセンスが反映しているのは言うまでも無い。 いつも言うように、 私自身が持っていたい、走るのを楽しみたい、そういう車達を仕入れ販売していきたい。 これが変わらぬモットーだ。 このページはぜひ 読んでもらいたい。 私の生き方、考え方=当社の基本理念が判ります。 |
1951年 大阪市内の下町 天下茶屋 ”てんがちゃや”と読む。 豊臣秀吉がその地でお茶を所望し美味しかったことから、天下の茶屋と称せよと言われたことから名がついた。 で産まれる。 子供の頃はなんの才能も無い普通のガキだった。 オヤジの転勤で13歳の時に東京へ引越し。 しかし東京でも北のはずれの葛飾区、それも隣の千葉との境くらいのへき地? (水元公園と言う上野の山の 数倍の面積のデカイ公園のそば)だったので、東京に持っていた幻想が崩れた。 中学3年の5月に転校したものだから友達も出来ず仕方無しに受験勉強に明け暮れる。 その甲斐あってか、競争率3倍の航空高専に受かる。(場所は下町の台東区) 在学中は学生運動に明け暮れ、5年のところを7年費やしようやく卒業にこぎ着けた。 同期は早々と就職先が決まっていたが、私は全くあても無し。 バイトをしながら好きな車の本を眺めていたら、シーサイドの社員募集が目に留まった。 直ぐに連絡すると明日来いと言う。 次の日簡単な面接の後、明日から来いと言われた。ラッキー。 ここから私の車屋の人生が始まった。 その間の事は、シーサイド物語に詳しく出ているから見てくれ。 1980年の2月にシーサイドが倒産し、路頭に迷う? 4月から見よう見まねでブローカーを始め、なんとか食いつなぐ。 87年には法人化し、現在に至る。 その間にはバブルもあり、120回も海外に出ることも経験してきた。 ある意味待てば海路の日よりあり みたいな人生だ。 ・私が始めて売ったイタ車 ・Dinoという本 |